自分にとってまあまあ大切だけど必要ないものは手に入れるのか?

考え方

結論

自分にとってまあまあ大切ぽいけど必要ないことを取りに行く基準は

自分の価値観との干渉、自分の心・時間・金銭の余裕

必要なものは手に入れるのみ

必要なものを手に入れる意味はある。だって必要だから

睡眠時間が必要なら、睡眠時間を手に入れる。夜ごはんが必要なら手に入れる

自分にとってまあまあ大切ぽいが必要ないものは?

ではまあまあ大切ぽいと思っているけど自分にとって必要がないことは、どう取り扱ったらいいのか?

まず一つ議論したいのは①それを取りに行くのかどうか

②取りに行くとするならなぜ取りに行くのか?どういった意味づけをしてとりにいくのか

前提

何となく大切ぽいと思った時に、「自分にとって本当にそれは大切なのか?」を問う

その後、自分にとってまあまあ大切ぽいと至ったとする

例えば、

みんなが大切といっているもの:立場だったり見られ方だったり

これは自分に大切かを問うたときに、大切でないという結論に至った

そういう場合はこの章以降の議論の対象ではない

次にお金

自分にとってはまあまあ大切、自給自足をしない限りはお金が多少はないと生活できないため

病院に行けないため

これは自分にとってまあまあ大切なので、これ以降の議論で取り扱う

1必要ないものを取りに行くのか?:取りに行かないver

大切ぽいけど、それをやるには時間・気力が足らない

そういう場合は手放すことになるんだと思う。これを取りに行かないverとする

例えば、お金は大切、だけど自分にとってそこまで必要でない

稼げば稼ぐほど安心するけど、これ以上は現段階では必要ないと思っている

そうすると、「必要ないものは取りに行かない」という結論に達する

1必要ないものを取りに行くのか?:取りに行くver

大切ぽいし、時間や余力もある。

別に自分の大切にしている価値観とも干渉しないし、必要ないけど一応とっておくか

これが取りに行くverとする

お金を例に出すと、お金はまあまあ大切だし、今自分は余力もあるので稼いどくかの状態

自分にとって必要ないことを取りに行く基準

そう考えると、自分にとって必要ないことを取りに行く基準は

自分の価値観との干渉、自分の心・時間・金銭の余裕が鍵となってきそうなことが見えた

ここでまた気になってくるのが、ではこの余裕というのはどこまで自身は許容するのか

(つまりどのくらいの時間があると感じる場合に、どのくらいの時間なら必要ないことを取りに行くのか。難しい。。

例えば

毎日18時間働いています。睡眠時間もなくクタクタです

自分にとってまあまあ大切ぽいことなので、必要ないけど一日1時間英語の勉強をしようと思っています。

この状況を余裕が「ある」と見て、人間は何となく・まあまあ大切ぽいから英語の勉強を入れようという気持ちになるのか?という話です。

それとも労働時間が8時間ならOKなのか?はたまた10時間だったらOKなのか

個人差によるとは思いますが、人によっての閾値はあるはず

まとまっていませんが一旦終わりで

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